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穎と劉淵は親子ほど歳が離れているんですね。「どうしようもない奴である」に、つくづく呆れてる感と、若造に対してなんとかしてやりてえ、みたいな漢気がある気がします。不義理をせずに自立したのも好感が持てる。もっと長生きしてほしかった。ハチャメチャ五胡十六国時代の先駆けなのに、だいぶまっとうな人物なのが、ほんと歴史の不思議ですね。
三國志平話で最後に劉淵を漢の後継者として登場させた構成にしたのは最大の理由は成立が元代=異民族王朝である元朝への配慮なのだろうと推測しますが元朝の支配下にあった当時の漢人にとっては劉淵のように漢人の文化に理解がありなおかつ度量と高貴さを備えた劉淵のような存在が「異民族が帝位にある現状において現実的に望み得る最良の君主像」であったのかも知れませんね後に現れる理想主義者前秦の苻堅とも合い通ずる面もあり劉淵の存在が苻堅の政策に与えた影響の有無や大小なども興味深いところですね
蜀漢正統論者には、とても心地良い劉淵の即位宣言
新たな時代を切り開いた英雄、劉淵。ずっと気になっていた人物を紹介していただきありがとうございます。
漢を名乗るの、血統もそうだけど魏や晋の正統性に対するアンチテーゼ的な意味もあるのかな。おまえらえらそうにしてるけど簒奪した賊じゃねーかよみたいな
魏はいいのでは?献帝の外戚でしょ曹魏氏は漢の継承者ですところで劉淵は冒頓単于が文民化したようなイメージですね公孫淵もそうなのかもしれませんが李淵と諱が被るせいで不遇な扱いを受けていたそうですよ
劉淵と言うとモンゴルの地で狩りとかをして勇猛果敢に育ったと思ってましたが 幽州や冀州等よりよっぽど洛陽に近い所で生まれ育ったのですね青春時代は都洛陽で皇帝に侍てるしちょっとイメージと違いました😅
蛮族の征服国家は最初は野蛮でそのうち文明化していくという印象があります。でも五胡の皇帝は最初の劉淵が八王なんかをしのぐほど知的なのに、後継の劉聡とか石虎とかが暴れるという逆パターンなんですね。
匈奴出身ながら漢の高祖・光武帝・劉備玄徳の後継となり、過去の前例のない異民族としての漢室「胡漢」を開いた劉淵。祖先が意外と漢室とのつながりがあり、故にその背景が匈奴であっても漢室の名を持つ王朝を開くことが出来た事は、それまでの異民族の歴史を考えるとまさに画期的と言える。
劉淵の諱が「淵」だったおかげで、公孫淵の字(文懿)が分かりました(三国志が編纂された当時は晋の時代だったので司馬懿の諱が避けられていたが晋書は唐の時代に編纂されたので避諱が解除されたため)。
劉淵は名前くらいしか知らなかったのですが、こんな素敵な大志をもった人物がいたのですね。勉強になりました。
前趙と言えば、劉淵・劉聡親子を支えながら最後は悲劇に見舞われた政治家陳元達。劉淵から「劉家の千里駒」と評され、後に皇帝となった劉曜。この時代も魅力的な人材が多くて面白い。
「帝王になれるかどうかはただ徳のみによるものだ」というのは陳勝の「王侯将相いずくんぞ種あらんや」に通じるんだけど、実際にはまだ劉氏の血を前に出さないと皇帝にはなれないんですよね。異民族に対する差別が解消されていくのはこの後、石勒や苻堅の役目になりますね。
皇帝にはなれなかったわけではなく、劉淵が劉氏を前に出すことを望んだ感じに見える。彼は漢文化に造詣が深かったし、長く漢に住んでいた人間だった。そういった彼は匈奴と中華が和合した王朝を作りたかったように見える。冷遇されていても司馬氏への忠心も残っていたようだし。
歴代の漢の始祖にはカリスマ性がありますね〜。
漢をボコった匈奴が漢の血筋を継いで漢を建国するのは皮肉よな。
神聖ローマ帝国と一緒やね
そういや最後の西ローマ皇帝もオレステス(フン族かゲルマン系という説が昔あった)の息子ロムルスアウグストゥㇽスでカンパニアに隠居させられたあとその血筋はブルガリア王家に受け継がれたとか結局アジア系(ブルカール族)に戻ってきたってのも凄い偶然
何故か中世ローマ(ビザンツ)帝国のライバル達がこぞってローマ皇帝名乗りたがるムーブと同じ構図よね神聖ローマ皇帝「ワイ、今日からローマ皇帝ね」ブルガリア皇帝「じゃ###このコメントは目潰しおじさんに粛清されました###ラテン皇帝「ワ###このコメントは陰謀大好きおじさんに粛清されました###セルビア皇帝「ワイも」某スルタン「じゃあワイがローマのスルタンね」皆「ドウゾドウゾ」
@@Michaelviii288 ローマのスルタンってなんだよ(哲学)
@@泉此方-v7k ルーム・カイセリ…(メフメト2世)まあローマ人とブルガリア人の皇帝やらローマ人とセルビア人の皇帝もいるから多少はね...?
異民族といいながらイメージ通りの野蛮っていうわけでもなく、学もちゃんとあるっていうのは面白い経歴
漢民族にとっての「漢」という国号の持つ意味、影響力を利用した劉淵は流石。そして、相変わらず代理画像のチョイスが上手い(笑)
痛風と見るだけで震えが来る。演技しか知らない時のゲームで出てくる於夫羅の誰やねん感匈奴に漢から輿入れしてたらこう言うことも有るなとサラッと流してしまうところで気付きが有る
劉淵解説動画ありがとうございました。匈奴の王族と漢朝劉氏とのサラブレッド過ぎる上に王渾がが評価したおかげでさらに警戒された半生は酷いですね。父親の劉豹(?)が長寿でしたから劉淵があと数年生存していたらと考えますと前趙王朝の最後は多少は違っていたのかなと考えます。次回の動画も楽しみにお待ちしております。
個人的には「匈奴の単于に漢の帝室から輿入れしていて、その子孫である」ことで劉氏を名乗ったことで「母系でもその苗字を名乗れる」ことを「劉淵の法則」として理解しているぐらい重要視している劉淵ですが、その細かな生涯を初めて知りました。晋時代は若いころの家康もかくやの人質暮らしが長く続き「鳴くまで待とう時鳥」を貫いたあたりはまさに英傑です。陳元達という本多正信ポジの人物も配下にいたので、長生きしてれば、そして劉和を無事教育できていたら、ほんとに家康みたいになれていた可能性はあった人物。もったいなかったです。余談ですが、動画中盤の司馬騰の決起の時点で、司馬騰方にのちに代・北魏を興す拓跋元氏がついていたことにも注目したいです。
飼い殺しの期間が長いとはいえ匈奴の地に戻り、劉淵はしっかりと漢の建国の正統性と異民族でも皇帝に即位できると指し示し、河北一帯を支配することに成功しましたが、欲をいえばもっと活躍して欲しかったですね。…でも、そうすると石勒が台頭出来なくなっちゃう可能性が低くなりますが…
呼延灼じゃねーかという突っ込みが大多数の人にとってはボケにもならないという
ジョジョで例えると劉邦、劉秀、劉備はジョースターの血統で劉淵はジョルノに近いが、個人的にはエンポリオみたいなもんだと思っているあと少し違うかもしれないがスターウォーズ新三部作の主人公のレイ。パルパティーンの孫だけど、スカイウォーカーを名乗ったみたいな感じにも似ているかな
劉淵の動画、とても興味深く拝見した。投稿者の述べたとおり、漢趙の特色は胡漢の国家で、これは国のあり方として新しい段階に移行したということには賛同できる。劉淵は、異民族であろうが徳のある者が皇帝となるという言葉を残している。これは彼が諸子百家を修めたのみならず、史記などの歴史書も深く理解していなければ出てこないものであると考える。また、歴史書的には曹魏正統論が支持されるところ、蜀漢正統論を挙げていることに注目したい。これは対晋戦略でもあったのだろうが、基本的には中華王朝の交代の際には禅譲が要件となる。後漢、曹魏、晋と禅譲は強制されたものであるとは言え成立しており、これに対抗する必要性があった。劉淵は漢帝室の血統で漢の復興を主張したのみならず、蜀漢も加えることにより禅譲の強制で成立した曹魏以降の王朝の否定したと言えよう。
劉邦、劉秀、劉淵ときたら、いつか劉裕もよろしくお願いします。
劉淵の言う通り、歴史を知っていればむしろ皇帝になるのが異民族でもええやんと言えるけど、やっぱり漢民族という枠組みは強力なのに変わりないっていうのが面白いな
むしろ中華文明が理想とする周が中原の民族ではないですからね。ムッソリーニ風に言うならば「純粋な漢民族とやらはどこにいるのか」ですね。
@@ravilsan1987 漢民族って漢の支配体制を受け入れた人々と考えた方がいいかもしれませんねその後の北魏、隋、唐も「俺達、元は鮮卑だけど政治、文化、風俗すべてを漢化したから漢民族だよね」と言ってる様なもんだから
@@ravilsan1987 実際、イタリアは 5 世紀のゲルマン侵攻の際にも北方民族と混ざり合っていました。 今、ローマの本当の子孫は見つかりません
@@ravilsan1987 純粋な日本人はどこにいるのか、OとDのY染色体はどちらが日本人なのか?そもそも漢民族は漢武帝時代に出現した代称であり、現代漢族はO、C、Q、Nを基本フレームとするY染色体集団である。商C、周N、漢O、晋O、唐O、宋Q、元C、明O、清C。
@@sumeo9757 ナニソレkwsk
ありがとうございます!
ご厚意、まことに感謝ですッ!!!!いつも励みになっています!!
今の高校生はこういう動画があって、歴史を学びやすくていいね。
不意に出た誇張された米津玄師がツボでした✨年末にupされる五胡による新時代。adoの新時代テーマで今年を締めくくって中華を堪能させてもらってありがたやです😆
当時の民の多くが漢こそ我らの国という意識が強かったのがよく分かる建国の流れですよね。
劉淵、胡漢の混じった王朝を建てるという新たな王朝の形を創始したという偉業があるけど、作った王朝を安定化させるには時間が足りなかったのが残念ですね…。前半生の飼い殺し期間が長すぎたんでしょうね…。しかし、匈奴もこの時点ですでにだいぶ漢化が進んでいますね…。(まあ、劉淵が漢民族の文化などへの理解が十分にあったから、漢趙(前趙)を中華の地に建国で来たんだろうけど。)
ヨーロッパもそうですけど、この対立と混淆の歴史が面白いんすよね
「匈奴」の「劉」姓で赫連勃勃を思い出してしまった。このチャンネルでも赫連勃勃と東昏候を取り上げてほしい(既にやってたらすみません)。
匈奴の劉氏は女系子孫なのですね。劉淵の解説は前から気になってました。
遊牧民や遊牧民をルーツに持つ王朝では嫁や嫁の実家が強い
鮮卑の拓跋氏に属して独孤部を起こした匈奴(河南)劉氏のほうが後に栄えますが
漢王趙w確かに何も間違ってないなw飼い殺し期間長かったといえ一代の傑物なのが勿体ないですね。いや、だからこそ名前を残せたと言えるのかな?
霊夢がしっかり関羽の諡号を覚えてるのが面白すぎる
21:52 恐ろしく速いサブリミナルイオン……俺じゃなきゃ見逃しちゃうね
漢趙の開祖だけにケツ物なのも納得、ここから建国と滅亡のつるべ撃ちが始まるかと思うとワクワクが止まらない次回も期待しています。
劉淵「独立!」匈奴「うおぉ!」劉淵「漢!」匈奴「ええぇ?」て空気にならなかったんかな?
西暦309年(永鳳二年)頃、汾水にて…或民「ん、何だろう? 何かが川の中に有るな…… !? これは、玉璽!」その人物が拾った玉璽には、四文字の字が彫られていた『有新保之』(新朝が之を保つ)王莽の時代に造られた玉璽だったが、その人はそれに『淵海光』の三文字を追加して劉淵に届けた。劉淵は吉兆だと大いに喜び、大赦を下して元号を『河瑞』と改元した。ただ、15年で滅んだ王莽の王朝に因む玉璽を、不吉だと思った家臣は少なくなかったと思われる。
もし長生きできていれば、彼の思慮深さが子孫たちに受け継がれていれば...。我が国における信長のように、歴史における一つのターニングポイントでもある人物でしたね。
北方異民族でありながら漢民族王朝の制度を積極的に採り入れることは、後にこの大分裂時代を終わらせ天下を統一した隋と唐との共通点でもありますね。やはり彼にもう少し寿命があれば歴史は大きく変わっていたと思わざるをえません。
どんだけ匈奴の存在がトラウマになっていたかが、良くわかりますね
劉淵の建国時の「兄が滅べば弟が継ぐのは当然である」という言葉から、劉淵の時代には漢が兄で匈奴が弟と見なされてたんですね。劉邦と冒頓単于の間で結ばれた兄弟の契りは匈奴優位で、漢が弟で匈奴が兄とみなして良いものだと思うのですが。劉淵が「史記」や「漢書」などの漢民族の史書を通して教養を身につけていた為でしょうか?
劉淵が漢側の教養を身に付けていたこともありますが前漢の宣帝の時代に、呼韓邪単于が臣と称して漢に降伏しています。劉淵はこの呼韓邪単于の後裔ですので、、漢が弟で匈奴が弟と見なしたのでしょう。
初の胡漢融合国家を打ち立て新時代を切り拓いた、三国志の真の勝者の一人
実際三国志演義の元ネタの一つに「劉淵サンがついに漢を復興させたZE!めでたしめでたし」エンドになるヴァージョンがあったらしい(うろ覚え)
三国志の大半は捏造である事がばれ始めた。僕は否定派。
劉淵好きすぎる。もはや抱かれたい。
オフラの顔、見るたびに誰かに似てるなぁと思ってたんだけど、あれだ、丙吉だ
さすがは後の歴史書に、劉邦·曹操にも匹敵し、なぜ中華に産まれなかったか!と称えられた劉淵、もう少し長生きして活躍する様を見たかったと思います。
劉淵は名前しか知らない人物だったのですが、なかなかの傑物ですね😲勉強になりました🙇恐らく「皇帝を連れて洛陽へ行く」ことに拘った司馬穎は戦いに勝つことよりも後継ぎとして承認されることに主眼を置いてたのでしょうが、一方の劉淵は官軍も賊軍もない戦乱を制するという感覚だったから「本拠地の鄴を守りぬく」ことを重要視したのでしょう。最初から両者のイメージしたゴールは違ったのでしょう。結果を見れば劉淵の現状認識が正しかったようです。彼が新しい時代を創ることになった。
呼延灼、呼延賛のルーツっぽい一族が!ずっとあの辺に住んでたんだなあ。
この蛮族が「ロイヤルファミリーからロイヤルな苗字もらったからオレ達もロイヤルでパラダイスみたいな国を造るぜー」という脳筋なノリは嫌いじゃない。後の世の後唐もだけど。言い訳としてはチョット苦しいけど日本の後北条氏もか。長く続いた王朝やそのロイヤルファミリーは貴種として旗印に都合が良いからね。
そういや劉氏でもないし漢がつく土地にゆかりがある訳ではないのに漢って国家立てた侯景って人いましたね速攻で滅んだけど
この動画を観てると、”実力”とは、何ぞや、と思ってしまう。
羌渠(188年没)の子である劉宣(308年没)、羌渠の孫で於夫羅(195年没)の子である劉豹(279年没)。晋書劉元海載記の記述が本当なら劉淵の親族って80~120歳くらいまで生きている長命な人物が複数人いるんですよね…劉宣に至っては後漢末期から五胡十六国時代初期までを生きたわけで…成漢の范長生と並んで歴史の証人といった感じがします。次回の五胡十六国動画も楽しみにお待ちしております。
なぜ漢のライバルだった匈奴が漢を建国したのか?というイデオロギーが今まで知らなかったので大変勉強になった。劉禅が懐皇帝と諡号を贈られていたとは・・・漢王朝というブランド力は当時乱世で台頭する諸勢力にとって権威付けに最適だったのだなあ(それを最初にやったのは劉備だったのであるが)。
なお劉禅の子孫は永嘉の乱で全滅した模様。ただ劉備(劉永筋)の子孫は成漢に逃れて生き延びましたが
西洋史でいうと北魏はメロヴィング朝フランク王国(孝文帝はクローヴィス)隋唐はカロリング朝フランク王国、劉淵はオドアケルかテオドリック大王とかかな
文武両道に優れた英傑だったんですね。五胡十六国の乱のどさくさに紛れて建国したかと思っていたのが恥ずかしい。人望もあり、武力もあり、頭もいい。惜しむらくは飼い殺しにされた時間が長かったこと。その後の漢趙がもったいない。
9:20 >身長2メートルもあるいかつい男が元々文化系とかちょっと無理があるんじゃないのォ呂布「えっ」←元主簿(会計係)
「力こそが正義いい時代になったものだ力さえあれば欲しい物を何でも手に入れられる」「狂ったか晋!」劉淵を飼い殺しにして多少の命脈は保ったものの滅びる運命は避けようが無いですなさあここからが本番だ!
ノンストップ匈四郎(セクシーコマンドー)
「盛徳の士は、乱世に疏んぜらる。」(劉向 説苑)なんて言葉がある様です。前漢の政治家の劉向という人物の言葉の様です。漢は漢でも違う漢ですが、(笑)劉淵の生き様に似ている気がしました。飼い殺しは、実は割と残酷な仕打ちな気がしますね。動画面白かったです。
漢>後漢>魏>晋>漢のながれは中々感慨深い流れ、いやまあ最後の漢は短命すぎたけど
高校の教科書等では短い記述に終始しがち(複雑さゆえ無理もないが)だが、冒頓単于ですら成し遂げられなかった匈奴の国家を建て、中国における異民族国家の先駆者(?)となった事実は無視できない。しかし、そんな漢(前趙)やその後の各王朝も漢族の政治システムをある程度にせよ取り入れざるを得なかったのだから、こういうところにも歴史の積み重ねが反映されていることが伺える。
劉邦が公主を下賜した単于の氏族と劉淵(の先祖のオフラ)の家系はハッキリ繋がっているかどうかは分からないそうですね。まあ有力氏族同士なので多少はどっかで繋がってる可能性は高いけど、劉氏の女婿(お婿さん)系統であると明確に打ち出せるような正当性はなかったのではないかなと思います。まあ言ったもん勝ちの時代だとは思いますが。
バキバキ名門...
いいですね!めちゃくちゃ有難うございます!!!是非、このまま隋唐まで行って欲しいです!!そうなれば暗黒時代を取り扱ったかつてない大作になりそうです!!
劉淵は251年の生まれらしいけど、親父の劉豹は195年(李傕郭汜時代)からバリバリ戦ってるんだよなぁ…。(ホントに親子なんだろうか)
別人が剽窃しただけだという説もありますね
はじめて五胡十六国時代について読んだ頃は、司馬炎と司馬衷の失政やまた曹氏の実力主義への反省がかえって異民族の流入をまねいたと思っていました。しかし最近の研究では五胡の侵入自体が寒冷化の影響であったとするものが増えてきているように見えます。八王の乱も実は単なる権力闘争ではなく、各王領地の生産に問題が発生していたのではないでしょうか?鳥人間さんの初期の動画のような考察動画もたまに見たくなります。なぜ明や宋では起きなかった大乱が晋では起きたのか。単に為政者が失敗しただけなのでしょうか?
youの主張は日本の戦国時代にかぶる。戦国時代も寒冷期だったそうな。
失政というのは特に科学技術が未発達な時代においては「結果責任」みたいな部分も少なからずありますしね当時の経験や知見の範囲ではどうにも克服が難しい事象(気候の変動や大規模な自然災害など)に関しては「そもそも当時の人類の技術水準では対処不能だった」というケースも少なからずありそうした限界ゆえに対応が否応なしに場当たり的にならざるを得ないためさらに混乱が進んだ…という面は確かにあったかと思われます
今でも八王の乱の原因(=西晋の滅亡)が、 1.司馬炎が司馬衷という統治能力のない後継者を指名したこと 2.宗室に軍事力を集中させたこと 3.平呉以降政治をないがしろにしたこと という捉え方は変わっていないと思います。そうではなく、なぜその後継王朝が漢民族ではなく異民族だったかという点でしょう。こちらは寒冷化の影響が大ですね。寒冷化で農牧境界線が南下、遊牧民族が華北平原に進出することは歴史の必然でした。ついでにいうと、明の時代には匈奴や鮮卑といった民族は漢民族と融合していますし、宋はそもそも統一できてないです(遼や金、西夏と併存する分裂王朝)変わりにモンゴルや日本や女真族が来るわけですが。
太陽活動の低下と戦争・政権交代は密接な関係があると思います。中国の代表的な王朝と日本の政変も年代が近いです。大航海時代も太陽活動の低下が原因だと思ってます。無ければ獲る!コレが戦争の根本です。
劉淵可哀想だな…大器晩成と言っても、後継者を明確に定められずに死後は後継者争うによって自ら建国した国を滅ぼしてしまった。しかし、大単于と皇帝を兼ねるという胡地と中華を統べた先駆け的な人物であるということは大いに評価できる。
もし劉淵の漢が続いていたら、中国史名物代替わりの人口減少が少なくなったのかどうか、十六国時代のように分裂していたら欧州的な国際関係になっていたのかと同じ程度に、目立たないけれど歴史の分岐点であったと思います。
最後のラグランジュポイントでフイタw
なんか孫策と袁術のやり取りの再現ドラマみたいな劉淵第四ダイナスティ物語。姜維が魏にとどまっていたら、こんな感じで西涼の覇者になれたんじゃ?なんて夢想します。しかし、左伝諳んじて長いひげって...あの方が転生したんか?
大乱闘司馬ッシュブラザーズから3xx年五胡の炎が中華を席巻する時代へ編集ありがとうございます
劉邦(前漢)ー劉秀(後漢(東漢))ー劉備(蜀漢)ー劉淵(前趙)ー劉裕(劉宋)ー劉知遠(五代十国の後漢)
匈奴って劉氏の女系子孫になってしまったんだな
リンリンランラン劉淵リンリンランラン劉淵
劉淵が病没したのなら、それは天寿を全う出来たと言う事になるのだろうか?だとしたら、この時代、それだけでも大したものだ。飼い殺しにされた時代が長かったのは無念だったのだろうけれど、後々の為、新しい国を作る為には大きく役立った時代だった事でしょう。この時期に中華の行政などの制度や実務を見て経験したのは劉淵にとって大きな経験だった筈です。雌伏の時代を耐え抜くことが出来たのもまた、劉淵の強さに他ならないと思うのです。
血統だけなら古代最強の血筋よね😂
三國時代、祖父は右賢王劉豹で妻は董卓の死亡後のゴタゴタで拐ったのが、蔡邕の娘で才女の蔡文姫。蔡文姫は二人の子を設けて曹操が身代金を払って帰還したが、二人の子の孫が劉淵だと聞いたことがある
吐蕃について解説お願いします
26:16 異民族同君連合と言える。
コーエー三国志で出てきそうで出てこない武将の1人なんで出てこないんだろう?🤔お父ちゃんの左賢王はいるのに
於夫羅は単于でありながら南匈奴の故郷に追い出された形で河東郡に拠っていますが、魏が管理した匈奴五部はその河東郡の匈奴勢力が元になっているようですし、単于不在の南匈奴の故郷はどんな運命を辿ったのかちょっと気になります。劉淵とはあんま関係ないですねすみません。
劉備と遠い親戚って可能性も高いよね。
おそらく匈奴の王族が劉氏を名乗れる様になったのは漢王朝滅亡からでしょうね避諱と似た話ですが皇族と同じ性を勝手に名乗るのはおそらく不可能でしょうし
漢王朝のさまざまな建国の皇帝の中で、彼は最も高い文化レベルを持った皇帝でした
匈奴出身とはいえ結局は知識階層の者が主役って本当なんですね
しっかりと今の中国にも受け継がれてる異民族怖いってのは、遺伝子にも歴史にも刻み込まれてるというのがよくわかる中国史異民族シリーズ。次も期待しています。
其實漢族的基因並沒有混入很多外族的基因,大約只有1%,因為相比於漢族,其他民族的人口實在太少了.....
而且很多遊牧民族原本是漢族,然後向北跑變成了遊牧民了
農耕民族的基因是很難被替換的,因為土地就是農業社會最大的生產力,只要沒有天災、內亂,只要一安定,中原是就是農業社會的天堂,生產力暴漲、人口直線上升、直到土地兼併過多,農民從自耕農變成佃農,再變成流民,然後內亂。
一瞬のイオン
ドマイナー中国史最高❗
八王の乱に乗じて、狡猾な五胡が乱入、程度に、勝手に想像してた。詳しく知れて良かった
匈奴の王族でありながら漢民族の帝室の血も・・・BLEACHみたいな血統だぁ
冒頓単于の子孫が劉姓名乗って漢王朝の正当ヅラしてるの地獄の劉邦がめっちゃ微妙な顔してそう
地獄確定なんだ
異民族が皇帝になる( ゚∀゚)ノ♪歴史が変わる!
隋や唐、清の皇帝も異民族。
龍淵はまだバランス感覚あるけど中国の戦国時代って志々雄さんばりの弱肉強食の世界だよな🤔
劉淵「あれ?今だったら、俺たちで中国乗っ取れるんじゃね?」
拓跋部と劉琨にボコボコにされた人
劉淵「我が除かんとしているのは司馬氏だけであり、細民(民百姓)に一体どのような罪があろうか!」
考えてみれば秦も異民族(おそらくチベット系民族か?)の可能性が高いですしね。かつて始皇帝が中華を統一したこともあるなら、民族で君主が決まるのではなく徳でそれが決まるという論理構成をしたほうがいいというのは分かる気がします。劉氏の後継者としての漢というのも大義名分ではあるでしょうが、それだけで君主となるには弱い気もしますし。
漢以前の中国には統一民族がありませんでした。周の制度や文化を受け入れた諸侯国はすべて「諸夏」でした。秦を異民族と呼ぶことに何の意味があるのでしょうかwww この基準を使用すると、周王室以外の周人はすべて異民族です。しかし、周王室も西戎地方から移ってきたのです。ということは、中国人は存在しないのでしょうかwww
@@wqwq-ol3hh 周でさえ華夏人と言えるか難しいですしね。結局のところ、異民族が征服することに理由をつけるために易姓革命の原理が利用されていると思われます。そうすれば民族や言語、宗教や慣習はともあれ、堯と舜(実在はさておき)の時代から続く「正統」は守れますからね。
@@kdmdouble 長文失礼します商人の祖先崇拝の体系は夏と黄帝がありません。「華夏人」の定義、文化、人口基盤の大部分は周人によって作られました。その点、商人は異民族だと言ったほうが現実的です。根本的な問題は、商周期の中国を近代民族主義の民族的観点で理解するのは、あまり適切ではないということです。「異民族」という概念は、「主体民族」に対して存在します。しかし、漢以前の中国には漢民族に相当する「主体民族」がいませんでした。一つの封国でさえ部族が単一ではないのに、「異」に対する「主体」はいったい誰なのでしょうか。周の時代の中華の民族の定義はもともと政治的な帝国主義思想で、基盤は文化と政治にあり、血統は大部分構築されていました。周人は東遷して華夏の概念を建てて、商人は南遷して最も早い中華文明を建てて、楚人は早期に南蛮とされてしかし漢族の概念を建てて、東夷は商周が異民族とされてしかし現代漢族の遺伝子と最も似ています…この複雑な関係は「異民族」「漢民族」の二項対立論では説明できません。ちなみに秦の民族構成も復雑です。古代の記録では、秦は東夷人によって西に建てられ、周王の盾として西戎と戦ったとされています。秦は征服して拡張して大量の西戎を吸収しました。吸収した西戎の成分が多すぎて中原の貴族に軽く見られました。ですから伝統的な認識では,秦国の起源は西戎ではありません。秦王室も趙王室も嬴姓の出身で、始皇帝嬴政の苗字は「嬴姓趙氏」、皇帝に名乗りを上げる前の名前は趙政でした。考古学はすでに証明して、秦の早期に明らかな東方の集団に異なった特徴の西方の集団に拡張する過程があります。
統一こそできなかったが生き様を示せたので悪くはないよねん
漢(笑)と言ったら宇宙大将軍。
お父さんの劉豹はゲームの三国志では微妙な能力のハゲたおじさんなのに
ーコメ、4つの漢王朝
司馬炎って確か仲達の孫。
穎と劉淵は親子ほど歳が離れているんですね。「どうしようもない奴である」に、つくづく呆れてる感と、
若造に対してなんとかしてやりてえ、みたいな漢気がある気がします。
不義理をせずに自立したのも好感が持てる。もっと長生きしてほしかった。
ハチャメチャ五胡十六国時代の先駆けなのに、だいぶまっとうな人物なのが、ほんと歴史の不思議ですね。
三國志平話で最後に劉淵を漢の後継者として登場させた構成にしたのは
最大の理由は成立が元代=異民族王朝である元朝への配慮なのだろうと推測しますが
元朝の支配下にあった当時の漢人にとっては
劉淵のように漢人の文化に理解があり
なおかつ度量と高貴さを備えた劉淵のような存在が
「異民族が帝位にある現状において現実的に望み得る最良の君主像」であったのかも知れませんね
後に現れる理想主義者
前秦の苻堅とも合い通ずる面もあり
劉淵の存在が苻堅の政策に与えた影響の有無や大小なども興味深いところですね
蜀漢正統論者には、とても心地良い劉淵の即位宣言
新たな時代を切り開いた英雄、劉淵。
ずっと気になっていた人物を紹介していただきありがとうございます。
漢を名乗るの、血統もそうだけど魏や晋の正統性に対するアンチテーゼ的な意味もあるのかな。おまえらえらそうにしてるけど簒奪した賊じゃねーかよみたいな
魏はいいのでは?
献帝の外戚でしょ
曹魏氏は漢の継承者です
ところで劉淵は冒頓単于が文民化したようなイメージですね
公孫淵もそうなのかもしれませんが
李淵と諱が被るせいで不遇な扱いを受けていたそうですよ
劉淵と言うとモンゴルの地で狩りとかをして勇猛果敢に育ったと思ってましたが 幽州や冀州等よりよっぽど洛陽に近い所で生まれ育ったのですね
青春時代は都洛陽で皇帝に侍てるし
ちょっとイメージと違いました😅
蛮族の征服国家は最初は野蛮でそのうち文明化していくという印象があります。
でも五胡の皇帝は最初の劉淵が八王なんかをしのぐほど知的なのに、後継の劉聡とか石虎とかが暴れるという逆パターンなんですね。
匈奴出身ながら漢の高祖・光武帝・劉備玄徳の後継となり、過去の前例のない異民族としての漢室「胡漢」を開いた劉淵。祖先が意外と漢室とのつながりがあり、故にその背景が匈奴であっても漢室の名を持つ王朝を開くことが出来た事は、それまでの異民族の歴史を考えるとまさに画期的と言える。
劉淵の諱が「淵」だったおかげで、公孫淵の字(文懿)が分かりました(三国志が編纂された当時は晋の時代だったので司馬懿の諱が避けられていたが晋書は唐の時代に編纂されたので避諱が解除されたため)。
劉淵は名前くらいしか知らなかったのですが、こんな素敵な大志をもった人物がいたのですね。勉強になりました。
前趙と言えば、劉淵・劉聡親子を支えながら最後は悲劇に見舞われた政治家陳元達。劉淵から「劉家の千里駒」と評され、後に皇帝となった劉曜。この時代も魅力的な人材が多くて面白い。
「帝王になれるかどうかはただ徳のみによるものだ」というのは陳勝の「王侯将相いずくんぞ種あらんや」に通じるんだけど、実際にはまだ劉氏の血を前に出さないと皇帝にはなれないんですよね。異民族に対する差別が解消されていくのはこの後、石勒や苻堅の役目になりますね。
皇帝にはなれなかったわけではなく、劉淵が劉氏を前に出すことを望んだ感じに見える。彼は漢文化に造詣が深かったし、長く漢に住んでいた人間だった。そういった彼は匈奴と中華が和合した王朝を作りたかったように見える。冷遇されていても司馬氏への忠心も残っていたようだし。
歴代の漢の始祖にはカリスマ性がありますね〜。
漢をボコった匈奴が漢の血筋を継いで漢を建国するのは皮肉よな。
神聖ローマ帝国と一緒やね
そういや最後の西ローマ皇帝もオレステス(フン族かゲルマン系という説が昔あった)
の息子ロムルスアウグストゥㇽス
でカンパニアに隠居させられたあと
その血筋はブルガリア王家に
受け継がれたとか
結局アジア系(ブルカール族)に戻ってきたってのも凄い偶然
何故か中世ローマ(ビザンツ)帝国のライバル達がこぞってローマ皇帝名乗りたがるムーブと同じ構図よね
神聖ローマ皇帝「ワイ、今日からローマ皇帝ね」
ブルガリア皇帝「じゃ
###このコメントは目潰しおじさんに粛清されました###
ラテン皇帝「ワ
###このコメントは陰謀大好きおじさんに粛清されました###
セルビア皇帝「ワイも」
某スルタン「じゃあワイがローマのスルタンね」
皆「ドウゾドウゾ」
@@Michaelviii288
ローマのスルタンってなんだよ(哲学)
@@泉此方-v7k ルーム・カイセリ…(メフメト2世)
まあローマ人とブルガリア人の皇帝やらローマ人とセルビア人の皇帝もいるから多少はね...?
異民族といいながらイメージ通りの野蛮っていうわけでもなく、学もちゃんとあるっていうのは面白い経歴
漢民族にとっての「漢」という国号の持つ意味、影響力を利用した劉淵は流石。
そして、相変わらず代理画像のチョイスが上手い(笑)
痛風と見るだけで震えが来る。演技しか知らない時のゲームで出てくる於夫羅の誰やねん感
匈奴に漢から輿入れしてたらこう言うことも有るなとサラッと流してしまうところで気付きが有る
劉淵解説動画ありがとうございました。
匈奴の王族と漢朝劉氏とのサラブレッド過ぎる上に王渾がが評価したおかげでさらに警戒された半生は酷いですね。
父親の劉豹(?)が長寿でしたから劉淵があと数年生存していたらと考えますと前趙王朝の最後は多少は違っていたのかなと考えます。
次回の動画も楽しみにお待ちしております。
個人的には「匈奴の単于に漢の帝室から輿入れしていて、その子孫である」ことで劉氏を名乗ったことで「母系でもその苗字を名乗れる」ことを「劉淵の法則」として理解しているぐらい重要視している劉淵ですが、その細かな生涯を初めて知りました。晋時代は若いころの家康もかくやの人質暮らしが長く続き「鳴くまで待とう時鳥」を貫いたあたりはまさに英傑です。陳元達という本多正信ポジの人物も配下にいたので、長生きしてれば、そして劉和を無事教育できていたら、ほんとに家康みたいになれていた可能性はあった人物。もったいなかったです。余談ですが、動画中盤の司馬騰の決起の時点で、司馬騰方にのちに代・北魏を興す拓跋元氏がついていたことにも注目したいです。
飼い殺しの期間が長いとはいえ匈奴の地に戻り、劉淵はしっかりと漢の建国の正統性と異民族でも皇帝に即位できると指し示し、河北一帯を支配することに成功しましたが、欲をいえばもっと活躍して欲しかったですね。…でも、そうすると石勒が台頭出来なくなっちゃう可能性が低くなりますが…
呼延灼じゃねーかという突っ込みが大多数の人にとってはボケにもならないという
ジョジョで例えると劉邦、劉秀、劉備はジョースターの血統で劉淵はジョルノに近いが、個人的にはエンポリオみたいなもんだと思っている
あと少し違うかもしれないがスターウォーズ新三部作の主人公のレイ。
パルパティーンの孫だけど、スカイウォーカーを名乗ったみたいな感じにも似ているかな
劉淵の動画、とても興味深く拝見した。
投稿者の述べたとおり、漢趙の特色は胡漢の国家で、これは国のあり方として新しい段階に移行したということには賛同できる。
劉淵は、異民族であろうが徳のある者が皇帝となるという言葉を残している。
これは彼が諸子百家を修めたのみならず、史記などの歴史書も深く理解していなければ出てこないものであると考える。
また、歴史書的には曹魏正統論が支持されるところ、蜀漢正統論を挙げていることに注目したい。
これは対晋戦略でもあったのだろうが、基本的には中華王朝の交代の際には禅譲が要件となる。
後漢、曹魏、晋と禅譲は強制されたものであるとは言え成立しており、これに対抗する必要性があった。
劉淵は漢帝室の血統で漢の復興を主張したのみならず、蜀漢も加えることにより禅譲の強制で成立した曹魏以降の王朝の否定したと言えよう。
劉邦、劉秀、劉淵ときたら、いつか劉裕もよろしくお願いします。
劉淵の言う通り、歴史を知っていればむしろ皇帝になるのが異民族でもええやんと言えるけど、やっぱり漢民族という枠組みは強力なのに変わりないっていうのが面白いな
むしろ中華文明が理想とする周が中原の民族ではないですからね。ムッソリーニ風に言うならば「純粋な漢民族とやらはどこにいるのか」ですね。
@@ravilsan1987
漢民族って漢の支配体制を受け入れた人々と考えた方がいいかもしれませんね
その後の北魏、隋、唐も
「俺達、元は鮮卑だけど政治、文化、風俗すべてを漢化したから漢民族だよね」
と言ってる様なもんだから
@@ravilsan1987 実際、イタリアは 5 世紀のゲルマン侵攻の際にも北方民族と混ざり合っていました。 今、ローマの本当の子孫は見つかりません
@@ravilsan1987 純粋な日本人はどこにいるのか、OとDのY染色体はどちらが日本人なのか?そもそも漢民族は漢武帝時代に出現した代称であり、現代漢族はO、C、Q、Nを基本フレームとするY染色体集団である。商C、周N、漢O、晋O、唐O、宋Q、元C、明O、清C。
@@sumeo9757 ナニソレkwsk
ありがとうございます!
ご厚意、まことに感謝ですッ!!!!
いつも励みになっています!!
今の高校生はこういう動画があって、歴史を学びやすくていいね。
不意に出た誇張された米津玄師がツボでした✨年末にupされる五胡による新時代。adoの新時代テーマで今年を締めくくって中華を堪能させてもらってありがたやです😆
当時の民の多くが漢こそ我らの国という意識が強かったのがよく分かる
建国の流れですよね。
劉淵、胡漢の混じった王朝を建てるという新たな王朝の形を創始したという偉業があるけど、作った王朝を安定化させるには時間が足りなかったのが残念ですね…。前半生の飼い殺し期間が長すぎたんでしょうね…。しかし、匈奴もこの時点ですでにだいぶ漢化が進んでいますね…。(まあ、劉淵が漢民族の文化などへの理解が十分にあったから、漢趙(前趙)を中華の地に建国で来たんだろうけど。)
ヨーロッパもそうですけど、この対立と混淆の歴史が面白いんすよね
「匈奴」の「劉」姓で赫連勃勃を思い出してしまった。
このチャンネルでも赫連勃勃と東昏候を取り上げてほしい(既にやってたらすみません)。
匈奴の劉氏は女系子孫なのですね。劉淵の解説は前から気になってました。
遊牧民や遊牧民をルーツに持つ王朝では嫁や嫁の実家が強い
鮮卑の拓跋氏に属して独孤部を起こした匈奴(河南)劉氏のほうが後に栄えますが
漢王趙w確かに何も間違ってないなw
飼い殺し期間長かったといえ一代の傑物なのが勿体ないですね。いや、だからこそ名前を残せたと言えるのかな?
霊夢がしっかり関羽の諡号を覚えてるのが面白すぎる
21:52 恐ろしく速いサブリミナルイオン……俺じゃなきゃ見逃しちゃうね
漢趙の開祖だけにケツ物なのも納得、ここから建国と滅亡のつるべ撃ちが始まるかと思うとワクワクが止まらない次回も期待しています。
劉淵「独立!」
匈奴「うおぉ!」
劉淵「漢!」
匈奴「ええぇ?」
て空気にならなかったんかな?
西暦309年(永鳳二年)頃、汾水にて…
或民「ん、何だろう? 何かが川の中に有るな…… !? これは、玉璽!」
その人物が拾った玉璽には、四文字の字が彫られていた『有新保之』(新朝が之を保つ)
王莽の時代に造られた玉璽だったが、その人はそれに『淵海光』の三文字を追加して劉淵に届けた。
劉淵は吉兆だと大いに喜び、大赦を下して元号を『河瑞』と改元した。
ただ、15年で滅んだ王莽の王朝に因む玉璽を、不吉だと思った家臣は少なくなかったと思われる。
もし長生きできていれば、彼の思慮深さが子孫たちに受け継がれていれば...。
我が国における信長のように、歴史における一つのターニングポイントでもある人物でしたね。
北方異民族でありながら漢民族王朝の制度を積極的に採り入れることは、後にこの大分裂時代を終わらせ天下を統一した隋と唐との共通点でもありますね。
やはり彼にもう少し寿命があれば歴史は大きく変わっていたと思わざるをえません。
どんだけ匈奴の存在がトラウマになっていたかが、良くわかりますね
劉淵の建国時の「兄が滅べば弟が継ぐのは当然である」という言葉から、劉淵の時代には漢が兄で匈奴が弟と見なされてたんですね。
劉邦と冒頓単于の間で結ばれた兄弟の契りは匈奴優位で、漢が弟で匈奴が兄とみなして良いものだと思うのですが。劉淵が「史記」や「漢書」などの漢民族の史書を通して教養を身につけていた為でしょうか?
劉淵が漢側の教養を身に付けていたこともありますが
前漢の宣帝の時代に、呼韓邪単于が臣と称して漢に降伏しています。
劉淵はこの呼韓邪単于の後裔ですので、、漢が弟で匈奴が弟と見なしたのでしょう。
初の胡漢融合国家を打ち立て新時代を切り拓いた、三国志の真の勝者の一人
実際三国志演義の元ネタの一つに「劉淵サンがついに漢を復興させたZE!めでたしめでたし」エンドになるヴァージョンがあったらしい(うろ覚え)
三国志の大半は捏造である事がばれ始めた。僕は否定派。
劉淵好きすぎる。もはや抱かれたい。
オフラの顔、見るたびに誰かに似てるなぁと思ってたんだけど、あれだ、丙吉だ
さすがは後の歴史書に、劉邦·曹操にも匹敵し、なぜ中華に産まれなかったか!と称えられた劉淵、もう少し長生きして活躍する様を見たかったと思います。
劉淵は名前しか知らない人物だったのですが、なかなかの傑物ですね😲勉強になりました🙇
恐らく「皇帝を連れて洛陽へ行く」ことに拘った司馬穎は戦いに勝つことよりも後継ぎとして承認されることに主眼を置いてたのでしょうが、一方の劉淵は官軍も賊軍もない戦乱を制するという感覚だったから「本拠地の鄴を守りぬく」ことを重要視したのでしょう。最初から両者のイメージしたゴールは違ったのでしょう。結果を見れば劉淵の現状認識が正しかったようです。彼が新しい時代を創ることになった。
呼延灼、呼延賛のルーツっぽい一族が!
ずっとあの辺に住んでたんだなあ。
この蛮族が「ロイヤルファミリーからロイヤルな苗字もらったからオレ達もロイヤルでパラダイスみたいな国を造るぜー」という脳筋なノリは嫌いじゃない。
後の世の後唐もだけど。
言い訳としてはチョット苦しいけど日本の後北条氏もか。
長く続いた王朝やそのロイヤルファミリーは貴種として旗印に都合が良いからね。
そういや劉氏でもないし漢がつく土地にゆかりがある訳ではないのに漢って国家立てた侯景って人いましたね
速攻で滅んだけど
この動画を観てると、”実力”とは、何ぞや、と思ってしまう。
羌渠(188年没)の子である劉宣(308年没)、羌渠の孫で於夫羅(195年没)の子である劉豹(279年没)。
晋書劉元海載記の記述が本当なら劉淵の親族って80~120歳くらいまで生きている長命な人物が複数人いるんですよね…
劉宣に至っては後漢末期から五胡十六国時代初期までを生きたわけで…成漢の范長生と並んで歴史の証人といった感じがします。
次回の五胡十六国動画も楽しみにお待ちしております。
なぜ漢のライバルだった匈奴が漢を建国したのか?というイデオロギーが今まで知らなかったので大変勉強になった。
劉禅が懐皇帝と諡号を贈られていたとは・・・
漢王朝というブランド力は当時乱世で台頭する諸勢力にとって権威付けに最適だったのだなあ(それを最初にやったのは劉備だったのであるが)。
なお劉禅の子孫は永嘉の乱で全滅した模様。
ただ劉備(劉永筋)の子孫は成漢に逃れて生き延びましたが
西洋史でいうと北魏はメロヴィング朝フランク王国(孝文帝はクローヴィス)隋唐はカロリング朝フランク王国、劉淵はオドアケルかテオドリック大王とかかな
文武両道に優れた英傑だったんですね。五胡十六国の乱のどさくさに紛れて建国したかと思っていたのが恥ずかしい。人望もあり、武力もあり、頭もいい。惜しむらくは飼い殺しにされた時間が長かったこと。その後の漢趙がもったいない。
9:20 >身長2メートルもあるいかつい男が元々文化系とかちょっと無理があるんじゃないのォ
呂布「えっ」←元主簿(会計係)
「力こそが正義いい時代になったものだ力さえあれば欲しい物を何でも手に入れられる」
「狂ったか晋!」
劉淵を飼い殺しにして多少の命脈は保ったものの滅びる運命は避けようが無いですな
さあここからが本番だ!
ノンストップ匈四郎(セクシーコマンドー)
「盛徳の士は、乱世に疏んぜらる。」(劉向 説苑)なんて言葉がある様です。前漢の政治家の劉向という人物の言葉の様です。漢は漢でも違う漢ですが、(笑)劉淵の生き様に似ている気がしました。飼い殺しは、実は割と残酷な仕打ちな気がしますね。動画面白かったです。
漢>後漢>魏>晋>漢のながれは中々感慨深い流れ、いやまあ最後の漢は短命すぎたけど
高校の教科書等では短い記述に終始しがち(複雑さゆえ無理もないが)だが、冒頓単于ですら成し遂げられなかった匈奴の国家を建て、中国における異民族国家の先駆者(?)となった事実は無視できない。しかし、そんな漢(前趙)やその後の各王朝も漢族の政治システムをある程度にせよ取り入れざるを得なかったのだから、こういうところにも歴史の積み重ねが反映されていることが伺える。
劉邦が公主を下賜した単于の氏族と劉淵(の先祖のオフラ)の家系はハッキリ繋がっているかどうかは分からないそうですね。まあ有力氏族同士なので多少はどっかで繋がってる可能性は高いけど、劉氏の女婿(お婿さん)系統であると明確に打ち出せるような正当性はなかったのではないかなと思います。まあ言ったもん勝ちの時代だとは思いますが。
バキバキ名門...
いいですね!
めちゃくちゃ有難うございます!!!
是非、このまま隋唐まで行って欲しいです!!
そうなれば暗黒時代を取り扱ったかつてない大作になりそうです!!
劉淵は251年の生まれらしいけど、親父の劉豹は195年(李傕郭汜時代)からバリバリ戦ってるんだよなぁ…。
(ホントに親子なんだろうか)
別人が剽窃しただけだという説もありますね
はじめて五胡十六国時代について読んだ頃は、司馬炎と司馬衷の失政やまた曹氏の実力主義への反省がかえって異民族の流入をまねいたと思っていました。しかし最近の研究では五胡の侵入自体が寒冷化の影響であったとするものが増えてきているように見えます。八王の乱も実は単なる権力闘争ではなく、各王領地の生産に問題が発生していたのではないでしょうか?鳥人間さんの初期の動画のような考察動画もたまに見たくなります。なぜ明や宋では起きなかった大乱が晋では起きたのか。単に為政者が失敗しただけなのでしょうか?
youの主張は日本の戦国時代にかぶる。戦国時代も寒冷期だったそうな。
失政というのは
特に科学技術が未発達な時代においては「結果責任」みたいな部分も少なからずありますしね
当時の経験や知見の範囲ではどうにも克服が難しい事象(気候の変動や大規模な自然災害など)に関しては
「そもそも当時の人類の技術水準では対処不能だった」というケースも少なからずあり
そうした限界ゆえに対応が否応なしに場当たり的にならざるを得ないためさらに混乱が進んだ…という面は確かにあったかと思われます
今でも八王の乱の原因(=西晋の滅亡)が、 1.司馬炎が司馬衷という統治能力のない後継者を指名したこと 2.宗室に軍事力を集中させたこと 3.平呉以降政治をないがしろにしたこと という捉え方は変わっていないと思います。
そうではなく、なぜその後継王朝が漢民族ではなく異民族だったかという点でしょう。こちらは寒冷化の影響が大ですね。
寒冷化で農牧境界線が南下、遊牧民族が華北平原に進出することは歴史の必然でした。
ついでにいうと、明の時代には匈奴や鮮卑といった民族は漢民族と融合していますし、宋はそもそも統一できてないです(遼や金、西夏と併存する分裂王朝)変わりにモンゴルや日本や女真族が来るわけですが。
太陽活動の低下と戦争・政権交代は密接な関係があると思います。
中国の代表的な王朝と日本の政変も年代が近いです。
大航海時代も太陽活動の低下が原因だと思ってます。
無ければ獲る!コレが戦争の根本です。
劉淵可哀想だな…
大器晩成と言っても、後継者を明確に定められずに死後は後継者争うによって自ら建国した国を滅ぼしてしまった。しかし、大単于と皇帝を兼ねるという胡地と中華を統べた先駆け的な人物であるということは大いに評価できる。
もし劉淵の漢が続いていたら、中国史名物代替わりの人口減少が少なくなったのかどうか、十六国時代のように分裂していたら欧州的な国際関係になっていたのかと同じ程度に、目立たないけれど歴史の分岐点であったと思います。
最後のラグランジュポイントでフイタw
なんか孫策と袁術のやり取りの再現ドラマみたいな劉淵第四ダイナスティ物語。姜維が魏にとどまっていたら、こんな感じで西涼の覇者になれたんじゃ?なんて夢想します。しかし、左伝諳んじて長いひげって...あの方が転生したんか?
大乱闘司馬ッシュブラザーズから3xx年五胡の炎が中華を席巻する時代へ
編集ありがとうございます
劉邦(前漢)ー劉秀(後漢(東漢))ー劉備(蜀漢)ー劉淵(前趙)ー劉裕(劉宋)ー劉知遠(五代十国の後漢)
匈奴って劉氏の女系子孫になってしまったんだな
リンリンランラン劉淵リンリンランラン劉淵
劉淵が病没したのなら、それは天寿を全う出来たと言う事になるのだろうか?だとしたら、この時代、それだけでも大したものだ。
飼い殺しにされた時代が長かったのは無念だったのだろうけれど、後々の為、新しい国を作る為には大きく役立った時代だった事でしょう。
この時期に中華の行政などの制度や実務を見て経験したのは劉淵にとって大きな経験だった筈です。
雌伏の時代を耐え抜くことが出来たのもまた、劉淵の強さに他ならないと思うのです。
血統だけなら古代最強の血筋よね😂
三國時代、祖父は右賢王劉豹で妻は董卓の死亡後のゴタゴタで拐ったのが、蔡邕の娘で才女の蔡文姫。
蔡文姫は二人の子を設けて曹操が身代金を払って帰還したが、二人の子の孫が劉淵だと聞いたことがある
吐蕃について解説お願いします
26:16 異民族同君連合と言える。
コーエー三国志で出てきそうで出てこない武将の1人
なんで出てこないんだろう?🤔
お父ちゃんの左賢王はいるのに
於夫羅は単于でありながら南匈奴の故郷に追い出された形で河東郡に拠っていますが、魏が管理した匈奴五部はその河東郡の匈奴勢力が元になっているようですし、単于不在の南匈奴の故郷はどんな運命を辿ったのかちょっと気になります。劉淵とはあんま関係ないですねすみません。
劉備と遠い親戚って可能性も高いよね。
おそらく匈奴の王族が劉氏を名乗れる様になったのは漢王朝滅亡からでしょうね
避諱と似た話ですが皇族と同じ性を勝手に名乗るのはおそらく不可能でしょうし
漢王朝のさまざまな建国の皇帝の中で、彼は最も高い文化レベルを持った皇帝でした
匈奴出身とはいえ結局は知識階層の者が主役って本当なんですね
しっかりと今の中国にも受け継がれてる異民族怖いってのは、遺伝子にも歴史にも刻み込まれてるというのがよくわかる中国史異民族シリーズ。
次も期待しています。
其實漢族的基因並沒有混入很多外族的基因,大約只有1%,因為相比於漢族,其他民族的人口實在太少了.....
而且很多遊牧民族原本是漢族,然後向北跑變成了遊牧民了
農耕民族的基因是很難被替換的,因為土地就是農業社會最大的生產力,只要沒有天災、內亂,只要一安定,中原是就是農業社會的天堂,生產力暴漲、人口直線上升、直到土地兼併過多,農民從自耕農變成佃農,再變成流民,然後內亂。
一瞬のイオン
ドマイナー中国史最高❗
八王の乱に乗じて、狡猾な五胡が乱入、程度に、勝手に想像してた。詳しく知れて良かった
匈奴の王族でありながら漢民族の帝室の血も・・・
BLEACHみたいな血統だぁ
冒頓単于の子孫が劉姓名乗って漢王朝の正当ヅラしてるの地獄の劉邦がめっちゃ微妙な顔してそう
地獄確定なんだ
異民族が皇帝になる( ゚∀゚)ノ♪歴史が変わる!
隋や唐、清の皇帝も異民族。
龍淵はまだバランス感覚あるけど中国の戦国時代って志々雄さんばりの弱肉強食の世界だよな🤔
劉淵「あれ?今だったら、俺たちで中国乗っ取れるんじゃね?」
拓跋部と劉琨にボコボコにされた人
劉淵「我が除かんとしているのは司馬氏だけであり、細民(民百姓)に一体どのような罪があろうか!」
考えてみれば秦も異民族(おそらくチベット系民族か?)の可能性が高いですしね。
かつて始皇帝が中華を統一したこともあるなら、民族で君主が決まるのではなく徳でそれが決まるという論理構成をしたほうがいいというのは分かる気がします。劉氏の後継者としての漢というのも大義名分ではあるでしょうが、それだけで君主となるには弱い気もしますし。
漢以前の中国には統一民族がありませんでした。周の制度や文化を受け入れた諸侯国はすべて「諸夏」でした。
秦を異民族と呼ぶことに何の意味があるのでしょうかwww この基準を使用すると、周王室以外の周人はすべて異民族です。しかし、周王室も西戎地方から移ってきたのです。ということは、中国人は存在しないのでしょうかwww
@@wqwq-ol3hh 周でさえ華夏人と言えるか難しいですしね。結局のところ、異民族が征服することに理由をつけるために易姓革命の原理が利用されていると思われます。そうすれば民族や言語、宗教や慣習はともあれ、堯と舜(実在はさておき)の時代から続く「正統」は守れますからね。
@@kdmdouble 長文失礼します
商人の祖先崇拝の体系は夏と黄帝がありません。「華夏人」の定義、文化、人口基盤の大部分は周人によって作られました。その点、商人は異民族だと言ったほうが現実的です。
根本的な問題は、商周期の中国を近代民族主義の民族的観点で理解するのは、あまり適切ではないということです。「異民族」という概念は、「主体民族」に対して存在します。しかし、漢以前の中国には漢民族に相当する「主体民族」がいませんでした。一つの封国でさえ部族が単一ではないのに、「異」に対する「主体」はいったい誰なのでしょうか。周の時代の中華の民族の定義はもともと政治的な帝国主義思想で、基盤は文化と政治にあり、血統は大部分構築されていました。
周人は東遷して華夏の概念を建てて、商人は南遷して最も早い中華文明を建てて、楚人は早期に南蛮とされてしかし漢族の概念を建てて、東夷は商周が異民族とされてしかし現代漢族の遺伝子と最も似ています…この複雑な関係は「異民族」「漢民族」の二項対立論では説明できません。
ちなみに秦の民族構成も復雑です。古代の記録では、秦は東夷人によって西に建てられ、周王の盾として西戎と戦ったとされています。秦は征服して拡張して大量の西戎を吸収しました。吸収した西戎の成分が多すぎて中原の貴族に軽く見られました。ですから伝統的な認識では,秦国の起源は西戎ではありません。秦王室も趙王室も嬴姓の出身で、始皇帝嬴政の苗字は「嬴姓趙氏」、皇帝に名乗りを上げる前の名前は趙政でした。
考古学はすでに証明して、秦の早期に明らかな東方の集団に異なった特徴の西方の集団に拡張する過程があります。
統一こそできなかったが
生き様を示せたので悪くはないよねん
漢(笑)と言ったら宇宙大将軍。
お父さんの劉豹はゲームの三国志では微妙な能力のハゲたおじさんなのに
ーコメ、4つの漢王朝
司馬炎って確か仲達の孫。